2009-07-15

素数たちの孤独 訳者あとがき


僕の翻訳出版第3作「素数たちの孤独」が発売されました。
以下にあとがき草稿を転載します。
ハヤカワオンライン
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訳者あとがき
本書は、イタリアで二〇〇八年最大のベストラーとなったパオロ・ジョルダーノの小説〈La solitudine dei numeri primi〉の邦訳だ。  
二〇〇八年一月の刊行直後から各紙書評ですでに高い評価を受けていた本作は、同年四月のストレーガ賞受賞によりその知名度を一気に高め、国内販売部数は一〇〇万部を超え、三〇カ国以上で翻訳される話題作となった。ストレーガ賞とは聞きなれない日本の読者も多いだろう。イタリアでは最高の文学賞のひとつとされ、アルベルト・モラヴィア、ダーチャ・マライーニ、ウンベルト・エーコ、ナタリア・ギンズブルグといった現代イタリア文学界の重鎮が過去の受賞者に並ぶ一九四七年創設の栄誉ある賞だ。それを若干二十六才の新人作家が史上最年少で、しかもその処女作で受賞したというニュースは非常にインパクトのあるものだった。数年前に日本でも、若手作家が芥川賞を受賞してしばらくマスコミをにぎわしたことがあったが、それとよく似た現象がイタリアでも起きたというわけだ。

パオロ・ジョルダーノの受賞にはその若さのほかにもさらにひとつ、注目を集める理由があった。彼の「本職」だ。  
二〇〇九年現在、ジョルダーノはトリノ大学の博士課程に在籍し、素粒子物理学を研究している。そう、彼は物理学者なのだ。先端科学と純文学、この意外な組み合わせは当然ながら話題となった。初期のインタビュー記事を読んでみると、それまでは地味な研究者でいたつもりが、たった一冊の本で不意に「ベストセラー作家」として派手なセレブの世界に仲間入りをさせられてしまったことに、彼自身、若者らしい素直な戸惑いを見せていて、実にほほ笑ましい。  
本作はすでに映画化の話もあり、「プライベート」等の作品があるイタリア人監督サヴェリオ・コスタンツォにより、二〇〇九年夏までにはクランクイン、二〇一〇年の公開が予定されている。脚本はジョルダーノと監督が共同で執筆を担当。撮影は、作者の生まれ故郷であり、この小説の主な舞台でもあるトリノで行われることになっている(作中にトリノの名前は一度も出てこないが、様々な風景描写からイタリア人読者にはそれと分かる仕掛けになっている)。

さて、肝心の物語の内容についてもそろそろ触れねばなるまい。ただ、あらすじに移る前にひとつ断っておきたい。まだ本文を読んでおらず、そして読むことをもう決めている読者はどうかこの先は読まず、今すぐ『素数たちの孤独』を読み始めて欲しい。これは余計な説明はせずに、「まあ読んでみてよ」と大事な人にそっと手渡したいような小説だから。  
例えば、思春期の荒波にさらされている少年少女にも、そんな子どもたちを理解できずに悩んでいる親にも、大人になんかなりたくないと思っている子どもたちにも、そして、まだ大人になり切れない大人たちにも贈りたい一冊だ。ここにはそうした苦しみがすべて表現されている。あなたの物語もきっとどこかにあると思う。それに出会った時、共感が心の深いところで癒しにつながるはずだ。  
『素数たちの孤独』は、何らかのかたちで孤独を抱えているみんなに読んで欲しい一冊なのだ。

物語は、ふたりの主人公、マッティアとアリーチェの幼少期から青年時代までの成長を交互に追って展開される。同い年の少年・少女はどちらも幼い頃の出来事がきっかけで心に深い傷を負ったまま十五才になり、つらい思春期を迎える。
成績こそずば抜けているが、自傷癖があり、誰とも打ち解けようとしないマッティアは問題児として転校を重ね、やがてアリーチェの高校にやってくる。一方のアリーチェは、父親へのコンプレックスに拒食症、不自由な片脚まで抱え、周りの女の子たちの自由奔放さに憧れながら、陰にこもりがちな孤独な日々を送っていた。
自分と同じ苦しみを初めて他人のなかに見いだしたふたりは、いつか恋とも友情ともつかぬ不器用な連帯を結ぶようになり、ひと時の安らぎを覚えるのだが――

実際、なかなか救われない物語だ。ふたりの両親を始め、決して多くはない他の登場人物たちもそれぞれの悲劇を心に秘めていて、やはりふたりと同じく、「過去の亡霊」のもたらす「結果の重み」に苦しんでいる。その苦しみから逃れることはできるのだろうか。もしできないとしたら、どうやって生き続けていけばいいのだろうか――作者は全編を通じてそんな問いかけを読者に投げ掛け続けている気がする。そして、明確な答えこそないものの、ほのかな希望らしきものが見えたところで小説は幕を閉じる。  
だが、ふたりの物語は読者のなかでさらに続いてゆくのではないだろうか。優れた作品ではしばしばそういうことが起こるものだ。  
書き方によってはひたすら重苦しくなってしまう危険のあるテーマだが、むしろふたりの将来が気になって(そしてマッティアの過去にまつわる謎の答えも気になって)まるで推理小説みたいに一息に読まされてしまう。  
タイトルの「素数」という言葉に、数学的パズルの要素を期待した読者は読後、いくらか裏切られた気がするかもしれない。でも、作者の科学者としての才能はそうした知的ゲームを織り込むことより、緻密な構成と極力無駄を省いたミニマルな文体に活かされているようだ。  
最近ではテレビで見かけることも増えてきたパオロ・ジョルダーノ。国境なき医師団イタリアのチャリティに参加したり、海外に講演に出かけたりと、どうやら作家と呼ばれることにも大分慣れてきたようだ。執筆をすでに始めたという第二作にも期待をしたい。  
最後に、また素晴らしい作品の翻訳の機会を与えて下さった翻訳会社リベルと早川書房の山口晶さんに深く感謝の意を表したい。拙訳が読者の心を揺り動かすことがあるとすれば、それは彼らの力によるところも大きいのだから。  

二〇〇九年六月  モントットーネ村にて       
訳者

7 comments:

  1. 『素数たちの孤独』拝読しました。
    本当にステキな本でした。
    先日その感想をブログにアップしたところ、訳者の飯田さんのお知り合いだとおっしゃる方からもコメントを頂戴しました。
    よかったら、トラックバック送ってくださいね。

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  2. コメントありがとうございます。
    ブログも拝見しました。本書の魅力が伝わったと知り、ものすごくホッとしています。素敵なご感想ありがとうございます。翻訳者である僕の腕についての賞讃のお声は、、、他人だったらびしばし突っ込みを入れたいところでありますが(笑)訳文の仕上がりについては、1/3以上は編集者さんの腕、、、かもしれません。

    トラックバック、じつは僕もよく分からないのです。
    リンクを作製、というところを利用するようなのですが、、、これだと記事になってしまうようですし、、、

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  3. 色々調べてみた結果、ブロッガーにはトラックバック機能はないみたいですが、がっちゃんさんの記事に僕の記事の直接リンクhttp://ryosukal.blogspot.com/2009/07/blog-post_15.htmlというリンクを張り付けていただくと、自動的に僕の記事の方にもトラックバックに似たものが帰って来て、記事の一番下に表示されるようです。

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  4. 遅ればせながら拝読いたしました。
    普段は読むのが遅いのですが、引き込まれて一気に読んでしまいました。
    翻訳であることを全く感じさせない、素晴らしい文章だと思います。
    どこかに感想を書こうとしたのですが、まだ自分の中で整理がついていないので、もう一度落ち着いて読んでからにしようと思います。
    こんな素敵な本を届けてくださって有難うございました!

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  5. Reikoさま
    お気に入っていただけましたようで、幸いです。ありがとうございます。僕も本作の翻訳を依頼された時は、とても嬉しかったのを覚えています。イタリアで大きな話題を呼んだ作であったこともそうですが、何か作者の感性にとても親近感を覚えましたので。割と自然な訳が出来たのはそのおかげもあるかも知れません。
    ご感想は「よかった」のひと言で、充分です。僕も本は大好きでも読書感想文が非常に苦手な子どもでしたので(笑)

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  6. 前々からこのサイトを覗かせてもらっていて、今日やっとコメントを書くことが出来ました。
    「素数たちの孤独」は初めて呼んだイタリア小説でした。とても素敵な本と訳で、発売された当時に一気に読んでしまいました。いまだに、主人公達の事を考えると、勇気を貰えている様な気がします。
    このサイトも拝見させていただきました。イタリアってやっぱり素敵な所ですね。
    では、今後のご活躍も期待しています。ありがとうございました。

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  7. Hiromiさま
    すてきなコメントありがとうございます。励みになります。
    たしかに日本では、イタリアの最近の小説に触れる機会というのがあまりないですね。イタリアは人口も日本の半分ほど、しかも日本人ほど本を読まない人たちなので、作家の絶対数もおそらく少ないと思います。ですので、こちらにいても、すぐれた文学作品の話題はなかなか伝わってきません。ですが、これだけ面白い国なので、きっとどこかに面白い作品も埋もれていると思います。またいつか、そんな作品を探し出して訳してみたいと思います。

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